2006年 11月 22日
一年前を振り返り |
ほぼ毎週、スーパーひたちに揺られ出張に出るようになってから、気付けば一年が経過した。
最近は特急乗車も慣れたもので、朝は松戸~土浦あたりで眠りに落ちて、泉~湯本の間で目が覚めるというタイムスケジュールを体が覚えてしまった模様で、休息の場としての活用方法を見出だされている。
さて、そうは言ったものの例外はあるもので、本日、珍しく勝田あたりで目が覚めて、読者に耽る、仕事をする、といった行為に一時間ほどを費やした。
そのなかで「去年はこんな感じだったな」と振り返り、その時、何を読んでいたかを思い出してみた。
昨秋、自分はバタイユの『眼球譚』を読んでいた。それだけで変人扱いされた記憶も稍あるが、それを朝の出張移動中の、これからお客さんと打ち合せをするという認識下での行為として、特別に危惧するでなく実践していたことに、我ながら肝が座っていたものだ、と感心した。
エロティシズムを追究するバタイユの初期作品であれば、内容は一般的にまともであるはずがなく、安い言い方をすれば、「エログロの極北」だ。今はレンタル中につき手元にないが、主人公(変態男女一対)たちのインパクトある主要行動を列挙してみる(うろ覚えの箇所もあるが、全体的なイメージを掴むのに問題はない)。
異常な性行為で幼なじみの美少女を発狂に至らしめる。
精神病院に収容されたその娘を救いに、素裸になって病院を駆け巡る。その後、数十キロの道程を裸のまま自転車で逃走。
自殺した娘のその面に小便を引っ掛けエクスタシーに浸る。
闘牛で殺された牛の睾丸を手に入れる。そして闘牛を観ながら一般客席で、それを陰部に挿入し絶頂に至る女。
教会の神父を女がレイプし、そいつが絶頂に至る瞬間に絶命させる、神聖なイエスの前で。
殺した神父の眼球を刳り貫きそれを陰部に挿入する女、その眼球に自殺させた幼なじみの視線を重ねる男。
等々。えぐいだろうとは思っていたが、想像を超える内容に引きずり込まれて読破した。
シチュエーションだとかキャラクターだとか、そういった要因があり、また執拗に、その過程の一語一句、一挙手一投足を「これで興奮するだろ!」と詳細に粘着に描写される官能小説とは決定的な違いがある。状況が欲情を増長することは分かり切ったことであり、また「実現しえない淡い関係」とかに興奮するのも当然。いかに大衆の同意を得るか、がテーマとなっており、そこには単純に性欲の充足があるだけだ。いわゆる「マニアック」な作品であっても、その行為の追求に重点が置かれる点で大きな差異はない。
対し、詳細がほぼ描かれることなく、その特異な行動をもってして、それのみによって、十分エロティシズムは成立し、またそれで成立することを材料としての人間性の追究を目指しているように感じられたのだ。極点を認めろ、だとか、それを描くことで満足する、といった次元ではない、挑戦だと。
だーーいぶ話がそれたが、そんな事を考えさせられる本を読んでいた昨年と、やはり朝からセリーヌを読んで満足している今日の自分を比較して、大きなブレなく、まっとうな社会人生活を送り続けているだけだ、と結論づけるのに問題はないと思われる。
社会人として、ようやく地に足がついた三年目、そこから一年が経過して、自分の興味あるものに時間を費やしているだけだ。ゴルフだサーフィンだと新たな趣味を見つけて生き生きしている輩と、別段、変わっている点はなかろう、と。
最近は特急乗車も慣れたもので、朝は松戸~土浦あたりで眠りに落ちて、泉~湯本の間で目が覚めるというタイムスケジュールを体が覚えてしまった模様で、休息の場としての活用方法を見出だされている。
さて、そうは言ったものの例外はあるもので、本日、珍しく勝田あたりで目が覚めて、読者に耽る、仕事をする、といった行為に一時間ほどを費やした。
そのなかで「去年はこんな感じだったな」と振り返り、その時、何を読んでいたかを思い出してみた。
昨秋、自分はバタイユの『眼球譚』を読んでいた。それだけで変人扱いされた記憶も稍あるが、それを朝の出張移動中の、これからお客さんと打ち合せをするという認識下での行為として、特別に危惧するでなく実践していたことに、我ながら肝が座っていたものだ、と感心した。
エロティシズムを追究するバタイユの初期作品であれば、内容は一般的にまともであるはずがなく、安い言い方をすれば、「エログロの極北」だ。今はレンタル中につき手元にないが、主人公(変態男女一対)たちのインパクトある主要行動を列挙してみる(うろ覚えの箇所もあるが、全体的なイメージを掴むのに問題はない)。
異常な性行為で幼なじみの美少女を発狂に至らしめる。
精神病院に収容されたその娘を救いに、素裸になって病院を駆け巡る。その後、数十キロの道程を裸のまま自転車で逃走。
自殺した娘のその面に小便を引っ掛けエクスタシーに浸る。
闘牛で殺された牛の睾丸を手に入れる。そして闘牛を観ながら一般客席で、それを陰部に挿入し絶頂に至る女。
教会の神父を女がレイプし、そいつが絶頂に至る瞬間に絶命させる、神聖なイエスの前で。
殺した神父の眼球を刳り貫きそれを陰部に挿入する女、その眼球に自殺させた幼なじみの視線を重ねる男。
等々。えぐいだろうとは思っていたが、想像を超える内容に引きずり込まれて読破した。
シチュエーションだとかキャラクターだとか、そういった要因があり、また執拗に、その過程の一語一句、一挙手一投足を「これで興奮するだろ!」と詳細に粘着に描写される官能小説とは決定的な違いがある。状況が欲情を増長することは分かり切ったことであり、また「実現しえない淡い関係」とかに興奮するのも当然。いかに大衆の同意を得るか、がテーマとなっており、そこには単純に性欲の充足があるだけだ。いわゆる「マニアック」な作品であっても、その行為の追求に重点が置かれる点で大きな差異はない。
対し、詳細がほぼ描かれることなく、その特異な行動をもってして、それのみによって、十分エロティシズムは成立し、またそれで成立することを材料としての人間性の追究を目指しているように感じられたのだ。極点を認めろ、だとか、それを描くことで満足する、といった次元ではない、挑戦だと。
だーーいぶ話がそれたが、そんな事を考えさせられる本を読んでいた昨年と、やはり朝からセリーヌを読んで満足している今日の自分を比較して、大きなブレなく、まっとうな社会人生活を送り続けているだけだ、と結論づけるのに問題はないと思われる。
社会人として、ようやく地に足がついた三年目、そこから一年が経過して、自分の興味あるものに時間を費やしているだけだ。ゴルフだサーフィンだと新たな趣味を見つけて生き生きしている輩と、別段、変わっている点はなかろう、と。
by jasum_fjo
| 2006-11-22 22:21
| 平時