2006年 12月 30日
漢字一文字 |
29日に友人より「今年を漢字一字で表せ」という題目をいただいた。
こういったものに応える場合、直球を投げることは望ましくないという思いが先立つが、一般にこういった場合のアプローチ、つまりは直球を投げるためのアプローチとしては、下記手段をとるものであろうか。
・まず一年を振り返り主要な出来事を洗い出す
・各種出来事の区分けを行う
・大勢を占める区分けの抽出
・抽出した区分けに対する一字の策定
定義してみたが、これではうまくいくはずがない。多数決的な抽出方法の不味さがまず一点、これを回避すべく、それぞれの出来事に重み付けの係数をつけたところで、やはり多数決的であることを逃れえず芳しくない。
重み付けをするくらいであれば、はじめから「今年一番の出来事」の抽出を行って、それに対する一字を選定すれば事足りる。
では、「今年一番の出来事」の抽出についてはどうか。全体的に暗鬱であった中にそれ故にきらめく紅一点。
この場合、その出来事は、暗鬱が前提条件として認められれば相対的であること否めず、年を表す言葉の主要因となるには力不足だ。
やはり年を表す一字とは、全体を客観的にみて抽出すべきものであろう。
各種の出来事は、偶発的であるようで、俯瞰すればある種の暗示が確実に存在するかのような、それぞれの結節点、全体としての聯係が導き出されることがしばしばであるからだ。
簡単にいえば、「木を見ずに森を見よ」。ただそれだけの事にすぎない。一般的なアプローチとしてもこちらが正しいのだろう。
さて、それで自分がどのように回答を編み出したかといえば、帰納的でなければならないところを、演繹的手法によって導いたのである。
ある単語を、2006という年との何らかの関聯を考慮した単語をまず規定する。
その単語に、いってみれば骨格に、各種の出来事を肉付けしていき、一体の生物を完成させるのだ。特殊な昂揚をもたらした出来事を脾腹に、絶望を四肢に、読まれた本の数々が脳髄を、新たな出会いが尾っぽを、他人における重大な出来事・それに対する個人的感慨が神経を、そして一年間の流転を心臓に、と頭の中でホムンクルスを創造する。
結果として作り上げたものは、戌年であるが故の『猫』
猫又であるかもしれないが、肉付けをしたところそれらしい様態を保ちえた。まったくの無謀から出発しなかったことが、功を奏したのだろう。
可愛げだとか癒しだとかとは縁遠くとも、食えぬ奴・猫被りといった部分と自身を照らし合わせ、『私個人は充分に猫のようであって、今年はそれを強化した年だった』という結論だ。
こいつをばらして三味線を作れば、原点が歪ゆえに不協和音の提供に事欠かないことだろう。
こういったものに応える場合、直球を投げることは望ましくないという思いが先立つが、一般にこういった場合のアプローチ、つまりは直球を投げるためのアプローチとしては、下記手段をとるものであろうか。
・まず一年を振り返り主要な出来事を洗い出す
・各種出来事の区分けを行う
・大勢を占める区分けの抽出
・抽出した区分けに対する一字の策定
定義してみたが、これではうまくいくはずがない。多数決的な抽出方法の不味さがまず一点、これを回避すべく、それぞれの出来事に重み付けの係数をつけたところで、やはり多数決的であることを逃れえず芳しくない。
重み付けをするくらいであれば、はじめから「今年一番の出来事」の抽出を行って、それに対する一字を選定すれば事足りる。
では、「今年一番の出来事」の抽出についてはどうか。全体的に暗鬱であった中にそれ故にきらめく紅一点。
この場合、その出来事は、暗鬱が前提条件として認められれば相対的であること否めず、年を表す言葉の主要因となるには力不足だ。
やはり年を表す一字とは、全体を客観的にみて抽出すべきものであろう。
各種の出来事は、偶発的であるようで、俯瞰すればある種の暗示が確実に存在するかのような、それぞれの結節点、全体としての聯係が導き出されることがしばしばであるからだ。
簡単にいえば、「木を見ずに森を見よ」。ただそれだけの事にすぎない。一般的なアプローチとしてもこちらが正しいのだろう。
さて、それで自分がどのように回答を編み出したかといえば、帰納的でなければならないところを、演繹的手法によって導いたのである。
ある単語を、2006という年との何らかの関聯を考慮した単語をまず規定する。
その単語に、いってみれば骨格に、各種の出来事を肉付けしていき、一体の生物を完成させるのだ。特殊な昂揚をもたらした出来事を脾腹に、絶望を四肢に、読まれた本の数々が脳髄を、新たな出会いが尾っぽを、他人における重大な出来事・それに対する個人的感慨が神経を、そして一年間の流転を心臓に、と頭の中でホムンクルスを創造する。
結果として作り上げたものは、戌年であるが故の『猫』
猫又であるかもしれないが、肉付けをしたところそれらしい様態を保ちえた。まったくの無謀から出発しなかったことが、功を奏したのだろう。
可愛げだとか癒しだとかとは縁遠くとも、食えぬ奴・猫被りといった部分と自身を照らし合わせ、『私個人は充分に猫のようであって、今年はそれを強化した年だった』という結論だ。
こいつをばらして三味線を作れば、原点が歪ゆえに不協和音の提供に事欠かないことだろう。
by jasum_fjo
| 2006-12-30 17:01
| 平時