2007年 01月 06日
死に至る病 |
2007年一発目。
「新年を迎えた直後に『絶望』について考える」という行為は、なかなかに面白いものであろう。
動機はやや不純なれど、もともと読みたかったものなのだから、新年の気合を入れるためにも十二分だ。
が、しかし。
哲学書の類を読んだのは久しぶりで、そもそもそれほど頭もよくなければ理解に苦しむところ多々あり。それでも1章の絶望については、大まかにはわかった気になっているので(こういう状態がまた絶望的ではあるが)、また気が向いたときに読むことで一旦は終了とする。
西洋哲学を理解しようとするうえで、避けて通れない「キリスト教」の壁。無神論に等しい日本人の感覚とは、確実に精神を異とする西洋人、しかも200年ほどの年代のずれもあれば、根本のずれが生じるのはやむをえないことだろう。
そこをどのように解していくかが己を成長させるための課題であろう。再読は必ずする。
さて、絶望をここまで分解し定義する思慮は、哲学者ならではのものではあるが、なるほど納得せられるところもあり、読むのに苦痛はあっても楽しみも持てた。
まず冒頭の人間の定義。これだけで「ああ、哲学書に手を出したな」と気合が入ろうというもの。
以下、本文より抜粋
--抜粋--
人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、――それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。
--ここまで--
人間をこのように定義したものを初めて見、理解に苦しんだが、後を読んでいけば、こういうことを指しているのだろう、と納得もできる。
上記のような精神性やそれを措定するものを意識せずに、ただ生活を営む人は、世間において経済的な成功者であろうとも、万物の霊長である人間に生まれたのにそれをまっとうしていないことになる。このような人たちが大多数を占め、彼ら自身は自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望に陥っているのである。これを換言し、キルケゴールは次のようにいう。
自己というものを、しかも永遠的な自己というものを、持っているということに関する絶望的な無知
この状態を脱しようとも、さらに根深い絶望が待っているのであり、その間に優劣はないとキルケゴールはいう。そうなってしまうと絶望を排した信仰の状態にたどり着けないのであれば、「バカは幸福である」という状態が最も望ましいもののように思えてくる。
しかし、自己を反省し苦悩すべきが人間であって、それを放棄したバカであることは、幸福であろうとも願い下げたいのは確かだ。
※ここでいうバカは、上記の自己を意識しない人、ということではなく、「イワンのバカ」のようなバカを指す。
幸福は消極的なものといったのはショーペンハウエルだったと思うが、それは「幸福とは不幸でない状態をさす」といったペシミストならではの見解であった。これに当てはめた場合、バカは絶望を意識しない点においては幸福であるかもしれないが、彼は苦悩を知らない、すなわち不幸であることを知らないために、幸福を得ることはできずに、ただ虚しさのなかを放浪するだけといえないだろうか。
それは人間として生まれたこと、その意義や必然性というものを完全に無視した悲惨な状態に思えてならない。
であれば、脱すること叶わぬ絶望を見つめ、苦悩し反省し、死ぬに死ねない状態を受け入れて人間をまっとうすべきが永遠的なるものへの正しい反応であろう。
難しいことではあるが、絶望のない状態をして、このような定義となるのは分解された絶望の症状を読めば、納得のいくものである。
自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力の中に自覚的に自己自身を基礎づける。
「新年を迎えた直後に『絶望』について考える」という行為は、なかなかに面白いものであろう。
動機はやや不純なれど、もともと読みたかったものなのだから、新年の気合を入れるためにも十二分だ。
が、しかし。
哲学書の類を読んだのは久しぶりで、そもそもそれほど頭もよくなければ理解に苦しむところ多々あり。それでも1章の絶望については、大まかにはわかった気になっているので(こういう状態がまた絶望的ではあるが)、また気が向いたときに読むことで一旦は終了とする。
西洋哲学を理解しようとするうえで、避けて通れない「キリスト教」の壁。無神論に等しい日本人の感覚とは、確実に精神を異とする西洋人、しかも200年ほどの年代のずれもあれば、根本のずれが生じるのはやむをえないことだろう。
そこをどのように解していくかが己を成長させるための課題であろう。再読は必ずする。
さて、絶望をここまで分解し定義する思慮は、哲学者ならではのものではあるが、なるほど納得せられるところもあり、読むのに苦痛はあっても楽しみも持てた。
まず冒頭の人間の定義。これだけで「ああ、哲学書に手を出したな」と気合が入ろうというもの。
以下、本文より抜粋
--抜粋--
人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、――それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。
--ここまで--
人間をこのように定義したものを初めて見、理解に苦しんだが、後を読んでいけば、こういうことを指しているのだろう、と納得もできる。
上記のような精神性やそれを措定するものを意識せずに、ただ生活を営む人は、世間において経済的な成功者であろうとも、万物の霊長である人間に生まれたのにそれをまっとうしていないことになる。このような人たちが大多数を占め、彼ら自身は自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望に陥っているのである。これを換言し、キルケゴールは次のようにいう。
自己というものを、しかも永遠的な自己というものを、持っているということに関する絶望的な無知
この状態を脱しようとも、さらに根深い絶望が待っているのであり、その間に優劣はないとキルケゴールはいう。そうなってしまうと絶望を排した信仰の状態にたどり着けないのであれば、「バカは幸福である」という状態が最も望ましいもののように思えてくる。
しかし、自己を反省し苦悩すべきが人間であって、それを放棄したバカであることは、幸福であろうとも願い下げたいのは確かだ。
※ここでいうバカは、上記の自己を意識しない人、ということではなく、「イワンのバカ」のようなバカを指す。
幸福は消極的なものといったのはショーペンハウエルだったと思うが、それは「幸福とは不幸でない状態をさす」といったペシミストならではの見解であった。これに当てはめた場合、バカは絶望を意識しない点においては幸福であるかもしれないが、彼は苦悩を知らない、すなわち不幸であることを知らないために、幸福を得ることはできずに、ただ虚しさのなかを放浪するだけといえないだろうか。
それは人間として生まれたこと、その意義や必然性というものを完全に無視した悲惨な状態に思えてならない。
であれば、脱すること叶わぬ絶望を見つめ、苦悩し反省し、死ぬに死ねない状態を受け入れて人間をまっとうすべきが永遠的なるものへの正しい反応であろう。
難しいことではあるが、絶望のない状態をして、このような定義となるのは分解された絶望の症状を読めば、納得のいくものである。
自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力の中に自覚的に自己自身を基礎づける。
by jasum_fjo
| 2007-01-06 11:30
| 本・映画