2006年 12月 30日
堕落論 |
生誕100周年と、年始までのつなぎを理由に読んだ坂口安吾の堕落論。
100周年を意識してか、本屋で文庫本が取り上げられていたり、名言集のようなものが発売されていたりと、作家自体が有名であって、一般に普及している作品だろう、と思う。「名前は聞いたことがある」ぐらいの知名度はあるだろう。
大学1年の時に読み、それ以来の再読であるが、「こんなに面白かったか?」と疑問に思うぐらい素直に読書を楽しめる。
作者は強烈な個性の持ち主で、根底にあるのは絶望や孤独であるが、それを肯定し、その上で徹底的に生に執着する。生にしがみつくために、自身の追究を怠らず、その追究のために徹底的な堕落と苦しみを積極的に肯定する。
他人に尊敬を覚えること、それによって自身の追究が阻まれるからか、人に対してまったく畏敬の念を抱くというところがない。徹底的なまでに自分を見つめているその姿は、素晴らしくもあり、しかしその気迫が与える切なさと、そこには至れない自身の甘さを認識させられる。
昔に比べ面白く感じられるのは、おそらく「自己との戦い、それ以外は二の次」という姿勢が、より近しいものとなったからであろう。
日本文化私論、堕落論、デカダン文学論、恋愛論…
等々、選りすぐって文庫化した感はあるが、それ故にどれもすばらしく、響く。
「生きていることに実感がない」という言葉が、特殊性を失している現代において、もっと多くの人々に読まれていい作品でないかと思う。
※作中で、「私の作品は心に病ある人の睡眠薬としてのみ役立っている」というような記述があるが、確かに刺激は強いがすなわち良薬で、真に健康な人、つまり絶望や孤独を超越した人(もしくは認識しない人)に対しては効用がない、という意味にとらえれば納得であり、しかし、そうはいかぬのだからあまねく普及されるべきであろう。
最後に本文からの引用をもって作品のすばらしさを伝えたい。
(デカダン文学論より)
私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息しえない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
100周年を意識してか、本屋で文庫本が取り上げられていたり、名言集のようなものが発売されていたりと、作家自体が有名であって、一般に普及している作品だろう、と思う。「名前は聞いたことがある」ぐらいの知名度はあるだろう。
大学1年の時に読み、それ以来の再読であるが、「こんなに面白かったか?」と疑問に思うぐらい素直に読書を楽しめる。
作者は強烈な個性の持ち主で、根底にあるのは絶望や孤独であるが、それを肯定し、その上で徹底的に生に執着する。生にしがみつくために、自身の追究を怠らず、その追究のために徹底的な堕落と苦しみを積極的に肯定する。
他人に尊敬を覚えること、それによって自身の追究が阻まれるからか、人に対してまったく畏敬の念を抱くというところがない。徹底的なまでに自分を見つめているその姿は、素晴らしくもあり、しかしその気迫が与える切なさと、そこには至れない自身の甘さを認識させられる。
昔に比べ面白く感じられるのは、おそらく「自己との戦い、それ以外は二の次」という姿勢が、より近しいものとなったからであろう。
日本文化私論、堕落論、デカダン文学論、恋愛論…
等々、選りすぐって文庫化した感はあるが、それ故にどれもすばらしく、響く。
「生きていることに実感がない」という言葉が、特殊性を失している現代において、もっと多くの人々に読まれていい作品でないかと思う。
※作中で、「私の作品は心に病ある人の睡眠薬としてのみ役立っている」というような記述があるが、確かに刺激は強いがすなわち良薬で、真に健康な人、つまり絶望や孤独を超越した人(もしくは認識しない人)に対しては効用がない、という意味にとらえれば納得であり、しかし、そうはいかぬのだからあまねく普及されるべきであろう。
最後に本文からの引用をもって作品のすばらしさを伝えたい。
(デカダン文学論より)
私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息しえない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
by jasum_fjo
| 2006-12-30 18:47
| 本・映画