2007年 02月 04日
マンガ的表現 |
六本木まで「日本の表現力」というイベントを見に行ってきた。
最終日であり、混雑を避けるために開館と同時ぐらいに行くスケジュールを昨晩たてる。朝飯は日比谷のスタバで日経を読みながら。少々カフカの「城」も読み進める。色々なもののアンマッチ感が出ていてよい。
さて、たどり着く前に、日比谷駅内(改札までの連絡口)でいい物を見た。
駅の清掃員である爺さんが、多分、知的障害のある中年女性(←違っていたらかなり失礼だが。)に対し、キレながら清掃の仕方を教えている。
その怒声、というよりも音響が、地下鉄連絡口の響き易い環境も手伝って以上にうるさく感じる。それを素直に、不安そうに、「本当に分かっているのか?」と、爺さん目線になってしまいたくなるような返事を返す中年女性。
日曜朝ならではの素敵な光景なのかもしれない。それにしたって、人が通るときぐらいはデシベル下げようぜ、爺さん。そうしなかったから面白いんだけど。
展示会の方は、「無料でこれなら、まあ納得できるかな」といったところか。
スタートが、マンガの起源としての「鳥獣人物戯画」であったために、少々嬉しくなって見回していく。そこでの、どーでもいい感想数点。
・「火の鳥」を一通り、発表年月順で読み直してみたい
・「パトレーバー劇場版」2作を久々に観ようかな
・湯川専務懐かしい
さて、違和感をもったのは、1950年代から10年間隔で当時のマンガ・アニメ等の主作品を展示してあったなかで、1980年以降は「ゲーム」という表現力のコーナーが出現し、それが年代を増すごとにスペースが拡大されていくこと。
ここで感じたのは、「感性の貧困化」が発生しえないか、ということ。
質の問題はあろうとしても、アニメやマンガは様々な受け止め方ができ、それがあるからこそ面白いのだ。普通、勧善懲悪でストーリーの解しやすい少年漫画を卒業した後、昔であれば、青年漫画や小説、映画、芸術の類に興味が移行していったであろうが、現今はどうか。
少年漫画と平行してゲームが存在している大問題がある。巷で言われる「ゲームやアニメの質が悪い」のではなく、『こなす』だけのゲームにどれだけ感性の成長が期待できようか、という点だ(感性を刺激されるゲームも当然ありはするが。。。)。
ゲームはあくまで「遊び」であって、昔でいうコマ・メンコ等のレベルに納まれば問題ない。違いは後者は幼少で卒業するところを、前者は卒業する年代が発見できぬところである。大人が息抜きでやること自体は、それほど危惧されることではない。
少年期から青年期にかけ、感性を鍛えるべきところで、その機会を喪失させてしまうから危険なのだ。
…などと考えながら、美術館を後にしようとしていると「ランドウォーカーのデモンストレーションがありますよ」と出口で案内される。(↓こんなんです)
http://www.sakakibara-kikai.co.jp/products/other/LW.htm
折角だからと、屋外の展示場にそれを見に行く。
こいつがスローではあるが、一通り動き回って、元の位置に戻る直前にエアー砲弾を発射する。それなりの見ごたえがあったが、場所とタイミングのせいかマンガ的な空想を膨らませてしまった。
操縦者は強度の躁鬱症。展示会最終日、晴天の日曜日に親子連れが楽しんでいる。
そんな場面を想像したら、自然と躁のパワーは強大に。
「驚かしてやろう」とエアー砲弾を鬱状態の際に自作した炸裂弾に勝手に取り替える。本人は驚かすことだけが目的で破壊目的は一切ない。
さあ本番。
いざ発射したら、たまたま炸裂弾を打ったところに人があり。日曜正午の晴天の下、鮮血場面に遭遇しようとは!
ここで操縦者は錯乱する。何かが外れた彼は、呆気に取られた観衆を標的に変更する。炸裂弾はまだまだ大量にある。いっそのこと全員殺してやろうか。
死人は出はしなかったものの、重軽傷者約50名という惨事となって、警察に連行されていくときに叫ぶ操縦者。
「美術館の中では人殺しのアニメやマンガがご大層に陳列されているんだぜ?それを模倣されて被害にあうなら、観に来た奴らも納得するんじゃないのかよ?皆、ガンダム好きなんだろ!!」と。
ほら。中途半端な感性の育て方でもこんなことになる。
最終日であり、混雑を避けるために開館と同時ぐらいに行くスケジュールを昨晩たてる。朝飯は日比谷のスタバで日経を読みながら。少々カフカの「城」も読み進める。色々なもののアンマッチ感が出ていてよい。
さて、たどり着く前に、日比谷駅内(改札までの連絡口)でいい物を見た。
駅の清掃員である爺さんが、多分、知的障害のある中年女性(←違っていたらかなり失礼だが。)に対し、キレながら清掃の仕方を教えている。
その怒声、というよりも音響が、地下鉄連絡口の響き易い環境も手伝って以上にうるさく感じる。それを素直に、不安そうに、「本当に分かっているのか?」と、爺さん目線になってしまいたくなるような返事を返す中年女性。
日曜朝ならではの素敵な光景なのかもしれない。それにしたって、人が通るときぐらいはデシベル下げようぜ、爺さん。そうしなかったから面白いんだけど。
展示会の方は、「無料でこれなら、まあ納得できるかな」といったところか。
スタートが、マンガの起源としての「鳥獣人物戯画」であったために、少々嬉しくなって見回していく。そこでの、どーでもいい感想数点。
・「火の鳥」を一通り、発表年月順で読み直してみたい
・「パトレーバー劇場版」2作を久々に観ようかな
・湯川専務懐かしい
さて、違和感をもったのは、1950年代から10年間隔で当時のマンガ・アニメ等の主作品を展示してあったなかで、1980年以降は「ゲーム」という表現力のコーナーが出現し、それが年代を増すごとにスペースが拡大されていくこと。
ここで感じたのは、「感性の貧困化」が発生しえないか、ということ。
質の問題はあろうとしても、アニメやマンガは様々な受け止め方ができ、それがあるからこそ面白いのだ。普通、勧善懲悪でストーリーの解しやすい少年漫画を卒業した後、昔であれば、青年漫画や小説、映画、芸術の類に興味が移行していったであろうが、現今はどうか。
少年漫画と平行してゲームが存在している大問題がある。巷で言われる「ゲームやアニメの質が悪い」のではなく、『こなす』だけのゲームにどれだけ感性の成長が期待できようか、という点だ(感性を刺激されるゲームも当然ありはするが。。。)。
ゲームはあくまで「遊び」であって、昔でいうコマ・メンコ等のレベルに納まれば問題ない。違いは後者は幼少で卒業するところを、前者は卒業する年代が発見できぬところである。大人が息抜きでやること自体は、それほど危惧されることではない。
少年期から青年期にかけ、感性を鍛えるべきところで、その機会を喪失させてしまうから危険なのだ。
…などと考えながら、美術館を後にしようとしていると「ランドウォーカーのデモンストレーションがありますよ」と出口で案内される。(↓こんなんです)
http://www.sakakibara-kikai.co.jp/products/other/LW.htm
折角だからと、屋外の展示場にそれを見に行く。
こいつがスローではあるが、一通り動き回って、元の位置に戻る直前にエアー砲弾を発射する。それなりの見ごたえがあったが、場所とタイミングのせいかマンガ的な空想を膨らませてしまった。
操縦者は強度の躁鬱症。展示会最終日、晴天の日曜日に親子連れが楽しんでいる。
そんな場面を想像したら、自然と躁のパワーは強大に。
「驚かしてやろう」とエアー砲弾を鬱状態の際に自作した炸裂弾に勝手に取り替える。本人は驚かすことだけが目的で破壊目的は一切ない。
さあ本番。
いざ発射したら、たまたま炸裂弾を打ったところに人があり。日曜正午の晴天の下、鮮血場面に遭遇しようとは!
ここで操縦者は錯乱する。何かが外れた彼は、呆気に取られた観衆を標的に変更する。炸裂弾はまだまだ大量にある。いっそのこと全員殺してやろうか。
死人は出はしなかったものの、重軽傷者約50名という惨事となって、警察に連行されていくときに叫ぶ操縦者。
「美術館の中では人殺しのアニメやマンガがご大層に陳列されているんだぜ?それを模倣されて被害にあうなら、観に来た奴らも納得するんじゃないのかよ?皆、ガンダム好きなんだろ!!」と。
ほら。中途半端な感性の育て方でもこんなことになる。
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by jasum_fjo
| 2007-02-04 23:38
| 平時